もえるおはなし
そこはかとなく書き綴る脳内ラノベ
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第12話「二人の関係」
 ありすの変化は僕を戸惑わせた。あの日、勢いに任せて一線を越えてしまったとはいえ、依然僕たちの関係は親の連れ子同士の義理の兄妹でしかない。その日以来、べた付き甘えるありすに対して僕は血の繋がった肉親の兄と同様にふるまってやろうと心掛けたけど、本当の妹なんていない僕にそれが十分に務まらないことは分かっていた。
「きっと今は誰か本当に甘えられる人にそばにいて欲しいのよ。それがたまたま敬ちゃんだったわけね」
 ちとせはそう言って、ありすが立ち直るまでは好きなように甘えさせてあげろと言った。しかし、四六時中子猫のように僕に付きまとい甘えるありすに、僕はいつしか戸惑いを通り越していとおしさを感じ始めていた。それはけっして兄が妹に対して感じるものなんかではなく、僕自身ありすをこのままいつまでも手放したくないと思い始めていた。
 ありすは口にこそ出さなかったけど、彼女の態度を見ても僕に兄以上のものを求めてるようだった。そにうち……最初は冗談だったのかも知れないけど、ありすは僕と唇を重ねて来た。もちろん、それはただのフレンチキスで、国によっては十分に兄妹間の親愛の情と認められるものだったけど。それ以来、僕たちはキスを交わす間柄になってしまった。人目をはばかる行為であるから、それは自宅で、ちとせのいない時に限られていたけど、僕たちにはそれが日常の行為になっていった。
 僕にはもう、ありすはいなくてはならない存在になっていた。妹としてではなく、一人の女の子として。すべてに気付いてたわけじゃないだろうけど日増しに親密さを増してる僕たちのことは当然ちとせに勘付かれていたのだろう。ある晩、ちとせは僕を呼び出して言った。
「まるで恋人同士さんみたいね。でも、仲が良過ぎても良いって話じゃないのよ」
 そんなことはわかっている。でも、もう僕は自分の感情を抑えられなくなっていた。これが本当の血を分けた妹なら最初からそんな感情は抱かなかったのかもしれないし、理性がそれを抑えることも出来ただろう。でも、僕とありすはたった二、三か月前に出会っただけの、遺伝子的にはあかの他人の男女である。本能的に肉親の感情を抱くよりも恋愛感情の方を強く抱いたとして、それにブレーキを掛けるものなんて何も無かった。
 何か言いたげだけど、それ以上は何も言えないでいるちとせの困惑だってわからないわけではない。「うん」と生返事で答えたけど、それが嘘に等しいことは自分が一番痛感していた。しかし、このまま感情の赴くままに流されていった帰結がどうなるかなんて、漠然とは危惧していたものの、それがそんな近くまで迫っていたとは、この時の僕には気付かなかった。

 はるなから電話のあった翌日。本来なら『ドキドキファンタ』のイベントに出掛けていたはずの日曜日。僕は何の予定も無いまま、普段の日曜通りの時間に起き出した。ちとせもありすも出掛けているらしく不在で、リビングにはさも当然のようにテレビの前に陣取ってるまりあがいた。
「けーちゃん、おはよう。ちーちゃんとあーちゃんは買い物に出掛けたよ」
 この欠食児童みたいな貧乏人に留守を預けて外出とは、二人とも物騒なやつら……と思ったが、とりあえずありすがイベントに出掛けて行ったわけじゃないのはわかった。
 日曜の朝といえば『ドキドキファンタ』の放送日である。ありすがアフレコをサボったのは二回だったが、今日の放送ではまだありすの声が流れていた。この作品の製作スケジュールがどうなってるのかは知らないけど、一般にテレビアニメのアフレコは放送の二、三週間前には終わってるという話だ。その通りだとすると、もう来週辺りの放送から危なくなってくる。ありすのファンタアップルも今日が聴き納めかもしれない。

 今回のエピソードは三クール目に入ってパワーアップしたファンタアップルにとって初めて訪れた大きな試練だった。巨大な敵ボス《ゲームマスター》の気まぐれから生み出されたパワーアップアイテムが林檎の元に転がり込んできたのだが、それを身に付けたキャラはバーサーカーとなって敵味方問わずに攻撃してしまうという代物だった。しかも本人にはその自覚が無いという凶悪なアイテムである。
 林檎自身はそのアイテムに何か違和感を覚えて使用をためらっていたのだが、それをラッキーとばかりに横取りしたファンタピーチがバーサーカー化して、メロン、チェリー、レモンの三人を傷付けてしまう。林檎はピーチを庇おうとするが、ピーチはそれを良いことに責任をすべて林檎になすりつけ、五人はみんな互いに不信感を抱いてバラバラになってしまうという話だった。
 少女向けのこの作品のことだから、次回にはわだかまりも解決して元の五人に戻るだろうとは思うけど、心なしかありすの演じる林檎の様子がひどく痛々しかった。

 昼食の時間になって二人は帰ってきた。
「お兄ちゃん、これ、眼鏡のお礼だよ」
 ありすは包装紙に包まれた箱を一つ、僕に渡した。
「お礼なんて別にいいのに……」
 僕はそう言いながら包みを開けた。中には双眼鏡が入っていた。眼鏡のお礼に双眼鏡って……駄洒落かいっ!
「声優さんの追っかけには必需品だよ」
 おまえが言うなと心でツッコみながらも、僕はありがたく頂戴しておいた。
「それからお兄ちゃん、今日の晩ご飯、外食でいいでしょ?」
「外食?」
 うちでは外食なんて、たまに父が帰国した時に呼び出されたりするぐらいしかなく、いつもはちとせの手料理だけだ。家計をやりくりしてるちとせに言わせれば、外食なんて割高でもったいないし、贅沢な味を覚えたら自分の料理なんか不味くて食ってくれなくなるからダメってことで、この件だけは口に出すのもタブーって感覚だった。
「お姉ちゃん、いつも食事の支度で大変でしょ。だからたまにはゆっくり食事を楽しんでほしいからって、私のプレゼントなの」
 何か普通の家庭では母の日にでも見られそうな話である。
「それなら外食なんかよりも、ありすが夕食を作ってやった方が喜ぶんじゃないか?」
 普段はボケボケなくせして金銭感覚にだけは厳しいちとせのことを思い出して言ったのだが……
「そ、それは言ってはいけないことよっ!」
 なぜか焦ったような口ぶりでありすは答えた。こいつ、うちに来るまでは一人で暮らしてただろうに、自炊は出来ないらしい。どうせ声優の仕事をサボって家で暇してるんなら、ちとせに料理でも習えば良いだろうにと思ったけど、口には出せなかった。
 それにしても、僕への眼鏡のお礼はともかく、ちとせにまで感謝のプレゼントとは何か気を遣い過ぎって気もしたけど、僕は二つ返事で諒承した。家族なんだからそんなに気配りする必要は無いって言いながら……

 その日の夕食は駅前の飲食店街の外れにある小さなステーキハウスだった。少しエレガントなムードの漂うこじゃれた店だったが……僕たちには不相応な高そうな店だった。こんなところで大丈夫かと心配したけど、ありすは笑顔で言った。
「お仕事のギャラ、使わずに貯めてあるから……」
 確かに生活費は三人分とも親から出てるみたいだし、小遣いはありすの分もちゃんと出てるから、ありすが声優の仕事で稼いだお金は浮いてることになるけど、こういう子役上がりの高校生でも一人前のギャラは出てるのかな? いわゆる養成所上がりの新人声優の場合、週一本のレギュラーだけじゃとても食ってはいけないって話は聞くけど、まぁ外食一回分ぐらいは心配する必要は無いのかも知れない。
「でも、これはお姉ちゃんへのごちそうだから、お兄ちゃんは自腹で払ってね」
 お、おい……
「うそ、冗談よ。お兄ちゃんの分もちゃんと出すから」
 お金の心配については本当にありすに全部出させてごちそうになって良かったのかどうか気になったけど、とりあえず食うものは食った。
「カラオケ行こ!」
 ステーキハウスを出た僕たちは、ありすに引っ張られて近くのカラオケBOXに入った。部屋に案内されるや否やリモコンを確保したままコードブックの新譜コーナーをチェックしていたありすは、目的の曲を見付けると、さっそく入力してマイクを取った。
「せっかく練習したんだから、お兄ちゃんとお姉ちゃんは聞いてね」
 それは先月末にシングルが発売されたありすのデビュー曲、つまり『ドキドキファンタ』の新OPテーマだった。どうやらこれが歌いたかった……というか、僕とちとせに聴かせたかったらしい。振り付けまで付けて本格的だったけど、客席からステージを見るならともかく、狭いカラオケBOXの一室で至近距離で目にしてもよくわからない。
 でも、夏のイベントツアーに向けて一生懸命練習したんだろうな。結局、一回も実演しないまますっぽかしてるけど。だから、カラオケBOXとはいえ、振り付け付きでありすの生歌を聴けたのはとてもレアなことなのかも知れない。
 初めて聴くありすの生歌は……予想してたより下手だった。まぁ僕たちの前で歌うことにあがっていたのかも知れないけど……こりゃ、CDやアニメで流れてるOPの歌はミキシング段階で相当に調整を掛けてるとみた。
 特別なステージはその一曲だけで、あとは普通のカラオケだった。ありすが基本的にマイクを離さないやつだというのはよくわかった。でも、下手糞だ。本当にこれでよくCDなんか出したものだと思う。いや、他の声優さんと比べてもありすが特別に下手だってわけじゃないんだろうけど……
 しかし、お姉ちゃんへの感謝とか言っておきながら、ちとせには全然マイクを渡してないと思うぞ。感謝はステーキハウスだけで終わってるのかも知れないけど。ま、ちとせの方も歌なんか歌えないって顔で困った表情を見せてたから、一、二曲強引に歌わせた以上に無理強いするのも良くないだろうし。いや、こいつはこいつで本当に歌える歌が無いって可能性も否定できないけど、実のところどうなんだろうか?
 とりあえず、歌えるだけ歌いつくしてたありすは満足だったろう。アニメの声優やってるからってその手の曲ばかりじゃなく、むしろ一般のアイドルソングの方が多かったりするのは普通なんだろうけど、かわいみなみの曲を何曲か集中的に歌ってたのは印象的だった。先輩との付き合いで歌い慣れてるのか、それとも歌の手本として挑戦してるのか、あるいは単に好きな曲として歌ってるのか、そのどれかはわからないけど……

 その晩。その日の『ドキドキファンタ』をCMカット編集して保存用のDVDメディアに収めた僕は、ネット上を巡回して他人の感想発言とかをチェックしていた。イベント絡みでありすに対する発言はあいかわらず不愉快なものが多かったけど、それらは極力読まないようにしていた。それから、僕が常連になってるある個人サイトの掲示板に自分の感想等を書いて、この日の日課は終わった。
 僕がそろそろベッドに入ろうかとした時、そっとドアが開いてパジャマ姿のありすが入ってきた。
「お兄ちゃん、一緒に寝ていい?」
 僕は返事に窮した。相手が普通の妹なら、それはただの添い寝の意味と受け取るべきなんだろうけど、すでに一線を越えてしまった僕たちにとってそれは別の意味も有り得た。そんなことはありすだって知ってるはずだ。
「お兄ちゃん、ありすのこと好き?」
 ありすは思い詰めた表情で言った。
「も、もちろん。当然だろ」
「家族としてじゃなくて、女の子として、だよ」
 即答に窮して僕は唾液を飲み込んだ。なんてことを訊くんだ、と僕は戸惑ったが、ありすは切なそうな瞳で答えを求めていた。どうやら冗談半分で訊いてるわけじゃないみたいだ。
「本気で訊いてるのか?」
 ありすはこくりと肯いた。
「好きだよ。僕はありすのことが好きだ。本当はいけないことなんだろうけど……」
 僕は何となく目を逸らしながら言った。互いに見つめ合って言ってしまえば、僕がありすを追い詰めるような気がしたからだ。
「よかった……ありすもお兄ちゃんが好きだよ。本当に好きだよ」
 ありすはそう言って僕に抱き付いて来た。僕もありすを抱きしめ、しばらくお互いの温もりを感じ合った・
「お兄ちゃん……」
 ありすはか細い声で切り出した。
「私、お兄ちゃんに謝らなければいけないの」
 何か言い難いことを言い出そうとしているありすに、僕は性行為に付きものの結果について危惧した。この前は避妊なんて余裕なんか無かったから、妊娠してたって可能性は十分ありえる。
 まさかそのまま産ませるわけにはいかないから中絶させるにしても手術代が掛かるし……中絶手術って保険が効いたんだっけ? それにそのことを隠し通せるわけはないから、いずれ両親にもバレてしまうだろう。その先のことを考えようとしたら頭の中が真白になった。
 でも、ありすの話はそんなことではなかった。
「ありす、今はお兄ちゃんのことが大好きだよ。でも……あの時はそうじゃなかったの。私はお兄ちゃんなんかどうでも良かった。ありすのこと優しく抱いてくれる人なら誰でも良かったの。たまたまお兄ちゃんがいたから、ありすはお兄ちゃんを騙してあんなことをしたの……」
 あの時のことって……僕とありすが兄妹の一線を越えた時のことなのか? 誰でも良かったって……僕を騙したって……そんなの女の子が簡単にすることじゃないだろ。あの日、いったい何があったんだ?
「お兄ちゃん。あの日のことで責任を感じてありすのことが好きだって言ってくれるんなら、嫌いになってくれてもいいよ。ありすは自分勝手で酷い女の子だから……」
「嫌いになんかなるものか! あの日のことなんか無かったって、僕はありすが好きだよ」
 涙を浮かべながら告白を続けようとしているありすを、僕は再びきつく抱きしめた。
「ありすのこと許してくれるの?」
「許すも何も、怒ってなんかいないよ」
「お兄ちゃん……ありすもお兄ちゃんのことが好きでいいのね」
「ああ」
 僕がそう答えると、ありすは僕の首に腕を回し、体を持ち上げ、僕に深く口付けた。
「お願い、お兄ちゃん。お兄ちゃんとの関係があの時のままだと嫌なの。本当にお兄ちゃんのこと好きになったありすと、エッチして……」
 僕はそのありすの誘いを断れず、また後先考えず、その結果がどうなるかも分からずに感情の赴くままにありすを抱いた。

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第11話「妹以上、恋人未満」
 その日、僕とありすは取り返しの付かない一線を越えてしまった。二人が平常心を取り戻し部屋に別れた頃にはもう夕方の陰りが出掛けていたが、幸いにもちとせはそれまでには帰って来なかったので、その行為を直接知られることは無かった。
 ちとせはただ予定より早く帰宅していたありすの存在と、脱衣場の洗濯物入れに早々と入れられていた衣類を怪訝に思ったようだけど、衣類の件は夕立に濡れたと言って納得させた。別にウソは言ってない。
 ありすのことは僕も気になっていたけど、本人が少しも話す素振りを見せない以上、無理に聞き出すこともないと思った。何よりせっかくありすと和解できたんだし(というかそれ以上の関係になってしまったわけだけど)、また関係を悪化させたくはなかったからだ。
 その日の夕食はさすがにあんなことの直後なのでお互いに顔を合わせるのが気恥ずかしく、この間までみたいにそっぽを向いてしまったが、微妙な態度の違いに気付いたのかどうなのか、ちとせはいつも通りにニコニコしていた。それもその日だけで翌日から僕とありすは以前の態度に戻っていた。さすがにこれにはちとせも気付いただろうけど、とくに問い質そうともせずにやはりニコニコしてるだけだった。
 そしてありすはそれ以来、僕にべたべたくっつくようになった。起きて家にいる時は大半を僕の部屋で過ごすようになったし、映画とかショッピングだとか、何かと一緒に連れ出されるようになった。一日中僕の部屋にいるといっても別にえっちなことをしてるわけじゃない。ただ僕の部屋で自分の宿題をやっていたり本を読んだりしてるだけで、ごくたまに会話があるだけのことが多い。最初はどう対応したらいいのかわからなかったけど、早い話、食事時にダイニングにいるのやリビングでくつろいでるのと同じで、たぶん空間を共有してることがありすには満足そうで、それ以上に気遣う必要は無かった。

 困ったのは、どうやって探し出したのか例のはるなが置いていったエロ同人誌を見付け出された時だった。
「お兄ちゃん、これ声に出して読んで欲しい?」
 ありすはファンタアップルの声で言った。ありすが僕の前でキャラの声を口に出したのは、あの出会いの日以外では初めてだった。思わず肯きそうになったしまった僕だけど、理性がそれを押しとどめた。家の中で声を出したりしたら、ちとせにそれを聞かれてどう思われるかわからないし、本当にエロ同人誌をそのままファンタアップルの声で読まれたら、間違いなくありすを押し倒してしまいそうだったからだ。
 ありすは顔を赤らめながら興味深そうにしばらくそのエロ同人誌を眺めていたけど、やがて飽きたみたいで放り出した。
「この作品始めた時、みなみちゃんに同人誌は見ない方が良いって言われたけど、こんなものが作られてるわけね。お兄ちゃんが萌黄さんと作ってる同人誌も、やっぱりこういう本なの?」
「そんなやらしいの描けるわけないだろ! それはあの同人女が勝手に持ち込んで来ただけで……」
「『うちと、こういうことせぇへんか?』とか言って?」
 ありすははるなの関西弁をまねた口調で言った。
「そんな関係じゃないだろ」
 僕がそう答えると、ありすは意外そうな顔をした。
「あの子、お兄ちゃんのカノジョじゃなかったんだ……」
 な、なんでそうなるんだ? 確かにそうでもなけりゃ、男子の部屋に日参するような女の子はいないのかも知れないけど……
「じゃ、私でもOKなんだね」
 ありすは何か思い付いたようにもう一度あのエロ同人誌を手に取り、あるページを示して言った。
「お兄ちゃん、ありすとこういうことしたくない?」
「バカ!」
 僕はありすから同人誌を取り上げた。いや、心が動かされなかったと言えば嘘になるけど、ありすだって冗談で言っただけだろうし、そんなことすれば本当に取り返しの付かないことになってしまう。あの日のありすは何があったのか行動が異常で、その日僕たちにあったことはただの事故だったと僕は自分に納得させていた。
 事実、ありすは僕にべたべたし始めたけど、もうあの日のような行動は見せなかったし、それが当然だった。あの日ありすに何があったのか僕は知らなかったし、ありすも何も言わなかった気けど、それが他人に言えない何か深刻な出来事だったってことは容易に想像が付いた。あの日の翌日、ちとせが東山先生と何か電話で話してるのを見掛けたからちとせは何か知ってるんだろうけど、それを僕には教えてくれなかった。

 あの日を境にありすが変わったのは僕に対する態度だけじゃなかった。あれだけ似合わずにきつい印象だけを与えていた眼鏡をまったく掛けなくなったことだった。夏休みで家にいるから面倒で掛けなくなったのかと思ったけど、よく観察してたら勉強したり外へ出掛けたりする時はコンタクトレンズを填めてるみたいだった。
 それ以外のコンタクトレンズを付けていない時のありすは焦点の定まらないマヌケな表情をして、よくあちこちにぶつかったりつまづいたりしていて、とても人気のアイドル声優とは思えない姿をさらしている。一方、コンタクトを付けた時は顔に締まりも出来て美少女顔が引き立ち行動も様になってるんだけど、目に馴染まないのか頻繁に目薬を差していた。
 眼鏡のきつい顔付きのありすを見るよりは萌え系美少女顔の素顔のありすの方が見ていて和むから、夏休みの間はそのままにしとこうかと思ってたのだけど、コンタクトを付けたありすも付けないありすも、何かどちらも痛々しく見えたから、僕は眼鏡を掛けなくなった理由を訊いた。
「こわれたから」
 ありすはぽそっと言い、それ以上は何も語ろうとはしなかった。何か語りたくない出来事があって眼鏡が壊れ、そしてあの日の異常なありすの行為につながっていったに違いない。たぶん、もう思い出したくもない出来事なのだろう。眼鏡が壊れたということは、レンズが割れたぐらいの話じゃなく、フレームまでもう使い物にならなくなったんだろう。あれだけあの眼鏡を大事にしていたありすだ。使えるならとっくに修理してるところだ。事故じゃないとすれば、何か酷い暴力行為でも受けたのだろうか?
 僕は原因の詮索はやめることにして、これ幸いとありすを眼鏡屋に連れ出していった。夏休みが終わった後、学校で素顔をさらしてるありすなんか想像したくなかったし、放っておいて自分でまた同じようなきつい似合わない眼鏡でも調達されたら大変だ。ありすの素顔をガードして、かつ、普通の女の子くらい穏やかさの感じられる眼鏡を僕の手で選んであげるんだ。
 ありすはよほど前の眼鏡に愛着があったらしく、僕の申し出に躊躇し、見繕ったフレームに反発を示したりもしたけど、最終的には僕のプレゼントを受け入れてくれた。これで新学期になっても前のようなきつい表情のありすを昼夜目にしなくて済むだろう。もっとも買って来た新しい眼鏡をすぐには掛けてくれなかったけど……

 あの日以来のありすの変化で一番深刻なことが別にあった。それは、あの日以来、ありすは予定のイベントにも劇団のレッスン日にも、そして『ドキドキファンタ』のアフレコにもまったく出掛けなくなってしまったことだ。普通の高校生の夏休みのようにのんびりと休暇を過ごしていたといえば聞こえは良いけど、レギュラーの仕事を持ってる声優さんにそんなことが許されるはずはない。劇団のレッスンは一度や二度サボったところでどうということは無いだろうし、イベントは急病だと言えば取り繕いも出来る。しかし、主役をやってるアニメ番組のアフレコに穴を開けたら大変だってことは関係者じゃない僕にだってわかる。
 あの日のありすにいったい何があってこんな風に変わってしまったのか知らないけど、『ドキドキファンタ』のファンとしてはけっして納得のいくことではない。当然事情を知ってると思うちとせに訊ねてみたのだけど……
「本人が出て行きたいと思うまで休んでて構わないって、東山先生が言ってたわ」
 そう答えるだけだった。
 まぁ劇団のレッスンはそれで構わないとしても、テレビアニメのアフレコなんて毎週、次から次へと終わらせないといけないんだからそれでは済まないだろ。当日だけ急に出られなくなったとかいうのなら別録りもあるだろうけど、こうずっと家に引きこもってたらそれも無理。放送に穴を開けないためには代役の声優さんを立てるしかないだろう。それでもまだ見切りを付けられない間に復帰したら短期のリリーフってことだけで済むだろうけど、見切りを付けられちゃうと主役降番ってことになる。それだけじゃ済まずにこの業界から干されることにもなりかねない。事務所とトラブルを起こして業界から干されてしまった声優さんや、コンサートをすっぽかして廃業させられたアイドル歌手の噂を思い出した。

 あの日、ありすが博多のイベントに出演せずに帰って来たことはネットの掲示板で知った。会場では急病による欠場とアナウンスされたらしく、しばらくありすを気遣う書き込みが続いていた。しかし、それに続いて広島と岡山のイベントに欠場し、『ドキドキファンタ』のアフレコをサボったあたりから書き込みが変わってきた。公式には急病ということで心配する発言も多いのだけど、ありすがプッツンしてすっぽかしてるんじゃないかと叩く書き込みが次第に目立ち始め、ついには有ること無いこと中傷する発言が繰り返されるようになった。
 もちろん、僕でさえ知らない事情を多くの掲示板参加者が知るはずが無いから根拠の無い中傷発言なんかが続くわけは無いのだけど、ある情報ソースの存在がその手の発言に根拠を与えてしまっていた。それは『ドキドキファンタ』の出演者でもある、ある中堅の男性の声優さんが自分のブログに書いた記事だった。
 その記事は具体的にありすの名前や作品名を出してはいないけど、その声優さん自身の出演状況やイベントの日程などからありすのことであるのは明白だった。伝聞であるとは断ってはいるものの、当日、九州某都市の会場までは来ていたのに個人的なトラブルで怒って帰ってしまったとか、その後のイベントやアフレコも仮病を使って休んでるということが書かれていた。書いた本人としては誹謗中傷のつもりはなく、すっぽかせば他の出演者に迷惑が掛かるからどうにかしてくれって愚痴に近いものだったんだろうけど、口の悪い一部のネットワーカーたちはそうとは受け取らなかったわけである。
 当初は大手の巨大匿名掲示板グループの声優板と呼ばれるところに立てられたスレッドだけだったのが、同じ掲示板グループのアニメ板に飛び火したかと思えば、数日中にはネット中の主な声優系やアニメ系の個人サイトの掲示板までもありすへの非難が見受けられるようになってしまっていた。
 好ましくない発言の集中した掲示板の中には管理人によって閉鎖されるものも相次ぎ、『ドキドキファンタ』の公式サイトの掲示板や、劇団《うみすずめ》の掲示板、それにいくつかの一条ありすのファンサイトの掲示板がそうだった。火種の元となった声優さんのブログもコメント欄が炎上し、早々とコメント禁止になっていた。
 僕はそれらの書き込みを見るには耐えず、しばらく巡回先から外すことに決めたのだけど、肝心のありすがそれらを目にしたのかどうかはわからない。ありすの部屋にも自由にネットにアクセスできる環境は備えてあるけど、あの日以来、多くの時間を僕の部屋で過ごしてるありすはそういう話題にはまったく触れなかったからだ。

 やがて地元での『ドキドキファンタ』のイベント開催日が近付いてきた。ありすは相変わらずで、前の週の神戸と大阪の会場も、直前の名古屋会場のイベントににも出て行かずに普通の夏休みを過ごしていた。
 地元イベントの前日、はるなから電話があった。なんかもうすっかり忘れていたけど、そういえばこいつと一緒に行く約束をしてたのだった。
「妹はんのことやけど……なんや欠席が続いとるっちゅう話聞くけど、ほんまか?」
「ああ」
「何か重い病気にでも罹ったんか? それとも事故で怪我して入院しとるとか?……それにしたらネットでえらい叩かれとるみたいやけどな」
 僕は答えに窮したけど、はるなに嘘を言ったってしょうがないから、とりあえず当たり障りの無いように答えた。
「いや、本人は元気でうちにいるけど……事情は聞かんでやってくれ」
「なんや大変なことでもあったんか? しかし、それやったら明日のイベントかて出て来やへんのんか?」
「たぶん……そうじゃないかな」
 僕にしたってありすがサボってる事情がわからないし、東山先生が本人しだいだって言ってる以上、確実なことなんて言えないけど……今さらありすがイベント会場に行ったって出してくれないような気がするし……
「それやったらしゃあないなぁ。目当ての妹はんが出ぇへんのやったら、明日のイベント行ったって仕方あらへんやろ。この話は無しにしよ」
 はるなは残念そうにそう言った。
「ああ、それからこっちが大事な話やけどなぁ……」
 一息おいた後にはるなはモエケット当日の待ち合わせ等の話を始めた。
「まぁ有明の最大手のイベントとは違うて、そんなにマスコミの話題になるほど人出があるわけやあらへんから、駅で待ち合わせしてて人ごみで迷子になるっちゅうことはあらへんやろうけど、万が一のときはサークル入場の列に並んで一人で入って来てや。チケットは近日中に届くように送るさかい。うちがおらへんでも本の受け取りとブースの設営はやっといてな」
 本の受け取りというのは、印刷所から完成した同人誌を直接会場宛に送ってもらうので、それを受け取ってくる作業らしい。ブースの設営というのは、手作りのイベントなので長机とパイプイスを自分たちで所定の場所に並べなければならないらしい。あと宣伝用のPOPとかも貼り出したりする。口で言うのは簡単だけど初心者には戸惑う作業だろ。まぁブースの長机は隣のサークルとの共用らしいから、分からなければお隣さんに聞けば良いんだろうけど……
「ほな、頼むで」
 はるなはそう言うと電話を切った。あえて口にはしなかったんだろうけど、はるなは明日のイベントのことはとても残念がってるように感じた。でも、明日は有明の最大手イベントの最終日でもある。この同人女のことだから明日はそっちで暇潰しするんだろうなと思った。
 有明のイベントといえば、中日の今日は創作文芸系のジャンルで参加するとかでちとせも出掛けてたっけ。もっとも、ちとせは売り子が専門で同人誌を漁りに行ってるわけじゃないみたいだけど……

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